コラム

『ハッスル』史上、最大の混乱ぶりを演じてしまった2009年が終わり、年があけて2010年。活動休止なのか、停止なのか、はたまたまもなく再開なのか……?
いまだなんのアナウンスもないまま、ただ時が過ぎて行くなか、『ハッスル』とゆかりがあり、東北の地でつねにハッスルしまくっている男、みちのくプロレス代表のザ・グレート・サスケに『ハッスル』とはなんだったのか?(なんなのか?)を聞いてみた。


「私とは目指すものが全然違いましたよね」

──さっそくですが、サスケさんにとって『ハッスル』とはなんだったのでしょうか?
サスケ 「ファイティング・オペラ」ですね(キッパリ)。
──なるほど。
サスケ それと、また別の表現をすると、「壮大なる実験の場」ですね。
──公式サイトに載ってそうな文言ですね(笑)。
サスケ ええ(笑)。でも、本当にプロレスが劇団四季みたいな方向に向かって行くのかっていう、そういう意味では凄く大きな可能性を秘めているなと感じていましたね。
──それは『ハッスル』がスタートした当初あたりからですか?
サスケ うん、当初から。あとは、私が初めて『ハッスル』さんからオファーをもらって上がらせたもらった時とか、まだ小川(直也)さんがいた時にも感じましたね。それと、映画『カンフー・ハッスル』のプロモーションの絡みで出させてもらったりとか、いろんなジャンルとコラボしていってましたけど、そういう、本来であればプロレス界全体がもっともっと力を入れるべきところを『ハッスル』はしっかりやっていたなっていう印象ですね。なおかつ、リング上では壮大なる実験の場であったっていう。リング外の部分では、老舗のプロレス団体がもっともっと力を入れるべきところなのにやっていなかった部分を上手くやってくれたってことですよね。だから、芸能人を呼んだりとかもそのひとつだと思うし。そういう意味では、プロレス界の隙間を突いたんじゃないですかね? 隙間を突きつつも、新しいフィールドを作っちゃったっていうことですよね。そういう意味では素晴らしいと思いますよ。
──『ハッスル』の山口日昇社長とは、昔から親友みたいなご関係ですよね?
サスケ そう、親友みたいなもんですね。だから、私が初めて『ハッスル』に出た時、山口社長と挨拶した際の山口社長の第一声が、「いや〜、サスケ社長。社長と昔、映画を撮ったりして遊んでいたことを、まさに今やってますよぉ!」というものだったんですよ。それを聞いて、なんか嬉しかったですねぇ。いよいよそれが本格的に仕事として、山口社長のライフワークになったんだなあっていう。そして、『ハッスル』の社長という立場になりながら、あの時の頃を忘れてなかったんだ、覚えてくれてたんだなっていう。それはもう嬉しかったですねぇ。
──その以前一緒に遊んでいた頃のお二人の関係っていうのは、いちマスコミといちレスラーという立ち位置でお付き合いをされていたと思うんですけど。
サスケ ええ、そのとおりですよ。
──それがのちに山口社長が『ハッスル』の代表になったということで、それからは団体運営だったりプロレスのソフトの作り方みたいな部分のお話を二人でされることってあったんですか?
サスケ いや、それはなかったですねぇ。やっぱり私は単なるローカルプロレスのレスラーであって、主催者ですから。それが一方の山口社長のほうは、目指すはWWEか、はたまた劇団四季かっていうお人でしょう?
──それ、もしかして悪口ですか……?
サスケ いやいやいやいや! 何をおっしゃいますやら、もう! ウフフフフ(笑)。山口社長はそういうところを目指していたんで、私とでは目指すものが全然違いましたからね。
──どっちが上か下かとかじゃないんですね。
サスケ そうそう。だからお互いに目指してるものが違うんで、相談することもなかったし、特に話をすることもなかったですね。でも、なんかその、素敵な空間でしたよね、『ハッスル』の会場って。「でしたよね」って過去形で語るのは悲しいんですけどね。
──山口社長は再開に向けて動いてるみたいですけどね。
サスケ おお、素晴らしいですねぇ! まだまだハッスルしますかぁ。ほほお〜。
──まるで気持ちがこもってませんね(笑)。
サスケ いやいやいやいやいや! ウフフフフ(笑)。本当にそのー、和泉元彌さんが出たあたりとか、あの頃から凄かったんじゃないですか? あそこから『ハッスル』が一気に凄くなりましたよね。私が『カンフー・ハッスル』とのコラボで後楽園に出た時の会場の熱も凄かったですよ。あの後楽園の熱気っていうのは、他のプロレス団体にはない空気でしたよね。凄く熱い空間でしたねぇ。あれはカルチャーショックでした。今までいろんな団体に出てきましたけど、どこの団体とも違うっていう。なんか、ハッスル独自の客層を作り上げたってことになりますよね。そこは凄いなって思いましたね。
──いちレスラーとして、サスケさんの『ハッスル』での思い出を教えてください。
サスケ そうですねぇ、いろいろありすぎてるんですけど。まず、『ハッスル』の仙台初上陸。おそらくそれが最初で最後の仙台だったかもしれないけど、その『ハッスル』仙台大会(『ハッスル17』2006.5.13/仙台市体育館)に出させてもらいましたが、あの大会が印象的でしたね。私と小川さんとHGがトリオを組んで、白使、あとはアン・ジョーさんと、他の誰か(※ゴモラ)と闘ったんですよ。地方会場なのにやけにお客さんが入ってましたね。それとあと青森。なぜか『ハッスル』は青森大会(『ハッスル13』2005.10.30/青森産業会館)をやってたんですねぇ。なぜか唐突に、なんの脈絡もなく(笑)。あの青森大会が、いまだに青森市民の間では伝説になってるらしいですよ。
──伝説になってるんですか?
サスケ ええ。青森市民が、自分たちでも驚いてるみたいですね。「なんで青森なのにあんなに人が入ったんだろう?」って(笑)。超満員だったらしいんですよ。いわゆる幕張メッセ的な、産業展示場的な、だだっ広い会場ってあるじゃないですか。まさに青森にあるそういう会場でやったんですけど、青森ビッグパレットっていう(※正しくは青森産業会館。ビッグパレットは福島にある会場)。そんなだだっ広い会場に隙間なくお客さんが入ったっていうところに、当時の『ハッスル』のパワーは凄いなあっていう、ビックリしたよね。あとは、やっぱりいつも思い出しているのは、池谷銀牙さんとのコンビですよねぇ。それが凄く印象に残ってますよね。池谷さんがプロレスデビューをされて。
──サスケさんがコーチをされたんですよね?
サスケ そうですね。「ああしよう、こうしよう」って二人で考えながらね。新技を開発したりとか。あの一連の池谷さんとのタッグは、なんか思い出しますよねぇ。
──あと、比較的新しいところでは、サスケさんがちょっと世間をお賑やかしになられた時期があって。
サスケ ええ、写メ事件の。
──その禊ぎという形で『ハッスル』からオファーがあったっていう。
サスケ だから池谷さんとのタッグが自然消滅して、「もうオファーはかからないんだろうなあ」って思ってた矢先にオファーがあって、「禊ぎマッチをやりましょう」っていうことになって。でも、あの試合はなにか私の体がついていかなかったですねぇ。体調が悪いわけじゃなかったんですけど、なにかこう磁場が狂ったっていう。「禊ぎマッチ」というテーマ付けが、私にとっては良くなかったのかもしれないですね。
──それは禊ぎをするつもりがさらさらなかったからですか?
サスケ いやいやいや、そんなことはないですよお、ウフフフフ(笑)。なにかが自分の中で違ってたのかなあ? ちょっと不思議な感覚でしたね。で、結局、技を自爆して全身がしびれちゃって、そのしびれてる身体で試合後にロビーで記念撮影会をやったんですけど。
──そんな状態で写メ撮り放題をされてたんですね。
サスケ そうそう(笑)。その時に、あれだけの事件を起こしたあとなのに、お客さんが温かい目線で写真を撮ってくれたっていうのが嬉しかったですね。大勢の皆さんに取り囲んでもらって。
──『ハッスル』ファンに救われたという。
サスケ そうですね。本当に救われましたねぇ。
──それで今回、サスケさんがおっしゃるところの「壮大なる実験の場」が活動休止みたいな状態になってるわけなんですが、その原因っていうのは、なんなんでしょうか?
サスケ これは明らかですよ(キッパリ)。
──お願いします。
サスケ でも、これ言っちゃっていいのかなあ……。
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